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福岡市の歴史

元寇

869年に新羅海賊が博多湾に侵入、1019年には刀伊の入寇があり、博多は常に対外的な脅威に曝されていた。その最大の脅威は、宋を滅ぼしてユーラシア大陸のほとんどを支配したモンゴルから来た。

高麗を屈服させた大元帝国のクビライが日本の服属を求め、鎌倉幕府がこれを拒否したことから、1274年、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人などからなる3万人の元軍が襲来した(文永の役)。10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた元軍は、元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。

10月20日(太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道原つづいて博多、箱崎に上陸し、激しい地上戦が展開された。これは、日本が開国以来初めて経験した「日本本土における外国軍との交戦」である。御家人との戦いで矢を失った元軍は撤退する。

このときの経験を踏まえて幕府は博多湾岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いた。今に残る「元寇防塁」である。そして、1281年に元軍が14万もの大軍で押し寄せてきたが、防塁で防衛力を固めた御家人はは撃退に成功する(弘安の役)。

そして博多湾上に浮かんだ元軍の船団に大暴風雨が襲いかかった。船団は海の藻屑となり、この大暴風雨は神仏の加護であるとして、神風伝説が発生することとなった。この日本を震撼させ鎌倉幕府衰亡のきっかけとなった二度の戦役を元寇と呼ぶが、元寇の恐怖の記憶は長く北部九州の民衆の中に語り継がれた。

ごく最近まで、玄界灘沿岸地方では、むずがる子どもに対して「ムクリコクリが来るぞ!」と脅していたという。ムクリ=蒙古、コクリ=高麗である。千年の時を閲してなお、恐怖の記憶は引き継がれていた。

また室町時代を通じて博多は堺と並び貿易都市として繁栄するが、それゆえに戦国時代には戦国大名の争奪の対象となり、堺と異なって防備することができず、まちは戦火で焼け、ほとんど廃墟となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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